宇多天皇

宇多天皇

宇多天皇繼位前,曾在陽成天皇的朝廷做過殿侍奉。後來繼位後,一次路過陽成院時,那個被勒令退休的荒唐鬼以嘲笑的口吻說:“當今聖上不是我當年的家丁嗎?”

基本介紹

  • 本名:宇多天皇
  • 出生時間:850年6月26日
  • 性別:男
  • 國籍:日本
  • 地位:天皇
  • 星座:巨蟹座
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攝關政治

宇多天皇一方面攝於藤原基經的威勢,一方面也是真心感謝他,下詔宣布:凡事須首先“關白於太政大臣”,這就是“關白”一職的出處。於是“關白”成了天皇之下,百官之上的最高官位。藤原基經從當年天皇年幼的“攝政”,變為天皇年長後的“關白”,史家稱其為“攝關政治”。日本的攝關政治不但擅權當政,甚至決定天皇的廢立,所以“攝關”凌駕於天皇之上,形成一種特有的政治體制

死亡時間

宇多天皇為了抵制藤原氏的勢力,恢復天皇的權威,任用道德文章均屬上乘的儒士菅原道真為右大臣。藤原氏反對天皇任用菅原道真,為此編造謠言陷害他。藤原基經的兒子藤原時平權勢日增,加以權門貴族對他的政策多方抵制,宇多天皇深感再與他們周旋已力不從心。於是,897年,宇多天皇讓位給13歲的敦仁皇太子,就是醍醐天皇,他自己則在仁和寺剃度出家,人稱宇多法皇。宇多法皇退居二線之前,把兒子託付給藤原時平和菅原道真,請他們多加指導和幫助。

在位時間

在位 11年(紀元1,547年~1,557年)(西暦 887年~ 897年)
年代 9世紀
時代 古代?奈良(平安時代初期)

年表

○紀元1,547年,仁和3年,11月17日天皇,位に即く。
○諱は定省(サダミ)。先帝の第七子。母は洞院皇太后。諱は班子。先帝,龍潛(リュウセン)(天子が未だ位に即ぬ時)の時,戱に後の生む所の三子に問て,各に欲る所を言はしむ。太郎(諱は是忠)對て曰く。「願は,太宰の大貳と為り,西海10國を領せん。」二郎(諱は是定)曰く。「願は,東藩を守り,15國を管せん。」帝,默然たり。三郎,徐に曰く。「願は,東宮に居て以て大寳を嗣がん」と。帝,悅ぶ。三郎は即ち天皇也。仁和3年立て皇太子と為る。是の日,先帝,崩ず。太政大臣,基經?左大臣源融?右大臣,源多,並に故の如し。尋て,位に太極殿に即く。詔す。「萬機巨細と無く,皆,太政大臣,基經に關白(アヅカリモウセ)」關白の職,此に始る。(義,漢の霍光故事に取る)
○是歳,唐の僖宗,殂す。弟,壽王傑立つ。是を昭宗と為。
○關白,基經封戸を賜い,三宮(太皇太后宮?皇太后宮?皇后宮,三宮と謂う。三宮,又,準後と號す。後世,其の封戸を止め,而して其の號を賜う者有り。蓋し,準後と稱するは,人臣極貴の號と為)に準ず。
○寬平元年正月朔。帝,天地四方屬星山陵を拜す。(後世,謂う所の四方拜,未だ原始を詳にせず。公事根源を按するに蓋し,此に昉(ハジマル)と故に此の後,復た書せず)
○5月,皇曽孫,高望に平,姓を賜う。(桓武天皇の曽孫,伊勢?北條等の諸氏の祖)
○11月,賀茂,上下の二宮に事有り,(世に所謂,臨時祭,此に始る)基經,上表し,關白を辭す。之を許す。
○2年正月朔,神鏡を溫明殿に祭る。(神鏡は,三種の神器の一。八咫の鏡也。世に所謂,內侍所の御供なるは,此に始る。)
○是月,內藏寮及び內膳司に勅し,上の子の日,若菜を進む。(按ずるに若弱と通ず。春菜を謂う也。)
○上元,主水司,始て,七種の菜粥を進む。
○3年,大納言,良世を以て,右大臣と為。是より先,右大臣,源多薨ず。
○修理職の官位を定め,中宮職に準ず。
○前の關白,基經薨ず。基經は淡海公6世の孫也。叔父,忠仁公,子無し,養て嗣と為。正一位を贈り,越前公に封ず。諡し,昭宜公と曰う。
○皇兄,是忠を以て親王と為。(是より先,源姓を賜い,中納言に任ず。是に於て姓と官を舎(ステ),罷號を以て名に配し,稱し,是忠親王と曰う)
○4年,藏人頭,菅原道眞に勅し,類聚國史を撰す。
○5年,皇子,敦仁親王を立て,皇太子と為。大納言,源能有,之に傳す。
○是歳,中納言,在原行平薨ず。行平は,平城の皇孫也。學を好み,嘗て奨學院(勸學院の西に在。村上帝,應和3年資給を賜い,勸學院に準ず)吏務に通じ,和歌を善くす。
太宰府に勅し,農を勸め,兵に備う。是より先,新羅,海冦至。故に是の命有り。
○6年,新羅,邉に冦す。勅し,太宰府の弩師を益す。既にして,筑前守,文屋善友,新羅と戰て之を破り,大將3人?副將11人?卒3百餘人を斬る。是の日出雲?隠岐の烽燧を復す。
○參議,菅原道眞を以て,遣唐使と為し,右少辨,紀長谷雄を副使と為す。道眞,上書し,之を罷んと請う。是に至て始て遣唐使を罷む。
○大學典藥の諸生,採用(サイヨウ)に堪ゆる者,及び鴻儒名醫の子孫を以て諸國の博士醫師に擧任す。
○冬,渤海入貢す。(使人は即ち裴頲,字は文藉也。是より先,元慶4年,來朝す。諸儒,鴻臚館に徃き之を見る。頲,菅公の詩稿を閱し,稱し,當世の白樂天と曰う。爾後,菅公の詩益々工。是に至て頲,又,之を閱て愈々嘆美を加う)
○7年,源融薨ず。融は嵯峨の皇子也。(融,遊樂を好み,蟲,魚,鳥,獸,草水,百花を愛す。嘗て六條河原の院を營し,池を其の庭に鑿ち,人に毎に海潮を攝津より運ば使め,之に注ぎ,灶を池畔に造り,鹽を燒き,煙を起し,陸奧の勝景を摸す。又,棲霞觀を嵯峨に建て樂を以て終焉す。年73)
○8年正月戊子,上,雲林院に幸す。子の日の宴を作。(世に所謂,子の日の游,此に始る)
○右大臣,良世を以て左大臣と為し,源能有を右大臣と為す。
○諸院,諸官王臣の家,庶民の請託を受け,田宅資財を爭訟するを禁ず。
皇太后,(諱は高子,世に二條の後と稱す。清和帝の後)密に東光寺の僧,善祐を幸す。事,覺る。即ち善祐を伊豆に竄し,遂に太后を廢す。年55.

晚年

○9年,皇太子,元服を加う。是の日,帝,禪するに位を以てす。且つ自ら書を著し,新主を誡しむ。其の畧に曰く。「賞罰を明らかにし,愛憎に惑う莫れ。喜怒を愼み,色に形(アラワ)す莫れ。婦言を用る莫れ。小人を舉る莫れ。治を有識に訪い,六經を求めよ」と。帝,嘗て巨勢金岡に殷周以來の名臣を紫宸殿の障子に圖せ使む。世に之を賢聖の障子と謂う。
○皇太子立つ。是を醍醐(ダイゴ)天皇と為す。

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