三好長逸

三好 長逸(みよし ながやす[1])は、戦國時代の武將三好氏の家臣。三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の雙璧と稱される[2]。三好三人眾の1人で、その筆頭格であった。

遊戲虛擬名稱:寺本生死之助
日本戰國名人稱號。
1515年~1573年。三好一門。三好三人眾之首。最早跟隨長慶,轉戰近畿。成為家中筆頭家老。長慶死後密謀殺死將軍。後來隨曾逃往四國,但是因為擁戴足利義昭而遭到信長攻擊。生不見人,死不見屍。
生年は不明だが、永正12年(1520年)に祖父とされる之長と父とされる長則が等持院の戦いで戦死しており、長則の子だとすれば出生はそれ以前ということになる。
三好長慶に仕える三好一族の1人(従叔父)として、長慶とその治世を支える。三好一族は多くが細川家の內紛の中で命を落としており、長慶が若年の頃に彼を後援してくれた三好連盛も沒落し、三好政長は父・三好元長の仇であり敵対関系にあったため、長逸は長慶から頼れる一族の年長者として信頼された。長逸の活動范囲は広く、山城、摂津、河內、丹波、大和と三好家の勢力圏全域に文書を発給し、所領安堵や年貢の督促などを行っている。
天文18年(1549年)の江口の戦いで細川晴元の部將・香西元成を攻撃。天文19年(1550年)に京都奪回を図り近江國から攻めてきた細川軍を長慶の弟・十河一存らと迎撃して阻止(東山の戦い)。長慶に反発して晴元と共に近江に亡命した室町幕府13代將軍足利義輝とも戦った。天文21年(1552年)に長慶と義輝が和睦を結ぶと送迎役の1人として義輝を亡命先の近江から出迎えている。
天文23年(1554年)に有馬重則の要請に応える形で播磨國人別所就治の三木城を攻撃して付城を落とし、弘治元年(1555年)の丹波の波多野晴通討伐(これは敗北し、松永長頼に代わった)など長慶の勢力拡大に貢獻し、三好一族の中でも長慶に最も信頼されて、永祿元年(1558年)頃までには山城飯岡城主に任ぜられ、山城南半分の統治を任されている。同年5月、再び長慶と義輝が対立して如意ヶ岳に陣取ると6月に松永久秀と共に將軍山城に向かい、11月に両者が和睦するまで戦った(北白川の戦い)。永祿4年(1561年)に長慶の子・三好義興が義輝を屋敷で歓迎した際に接待役の1人を務めている。
また、松永久秀と共に訴訟の取次ぎ・長慶の補佐などを扱う側近として長慶に重用されて同名眾にも列せられ、長慶の弟・実休、息子の義興や久秀よりも先に永祿3年(1560年)に従四位下に敘せられた。これは長逸の三好家中における地位の高さ、影響力の大きさを示すものとされる。同年に長慶が摂津芥川山城から河內飯盛山城へ移り、代わりに芥川山城を與えられた義興が幕府出仕のため京都に常駐するようになると、不在の芥川山城を任されるなど非常に三好家の中で重要な地位を占めていたことが伺える。
長慶死後の內亂
長慶と義興の死後は長慶の甥で幼少の當主・三好義継を他の三人眾(三好宗渭、岩成友通)や松永久秀らと共に補佐し、永祿8年(1565年5月19日には三好氏の障害となっていた足利義輝を暗殺した(永祿の変)。しかし、三好家中における主導権爭いから久秀とは次第に対立を深め、11月16日に飯盛山城にいた義継を高屋城へ移し、義継を說き伏せ久秀討伐の大義名分を獲得、永祿9年(1566年)に入ると両者は交戦狀態に突入した。三人眾は本國阿波を支える篠原長房と義継の大叔父・三好康長、久秀と敵対していた筒井順慶と組んで久秀と戦った。一方の久秀は畠山高政・安見宗房らと結んで対抗した。
こうした戦亂の最中に外國人の保護を行い、永祿8年7月、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスが京都から追放されてに赴く際、長逸は護衛のために家臣を同行させ、通行稅免除の允許狀を與えている(『フロイス日本史』)。このためフロイスは長逸を異教徒でありながらも「生來善良な人」「教會の友人」と記している。永祿9年(1866年)にも長逸について記録していて、「天下の4人の執政のうちの1人」「堺市內にきわめて豪華で立派な邸宅を有した」などと稱えている。
三人眾は摂津と堺を狙う畠山軍を撃破(上芝の戦い)、筒井順慶と結托して松永久秀の本拠地信貴山城・多聞山城を包囲したが、両者共に決め手が無く爭亂は長期化していった。この過程で永祿10年(1567年)、2月に三人眾に不満を抱いた義継が久秀の下へ逃亡、10月10日に三人眾の軍勢が陣取った大和東大寺を松永軍が攻撃し焼亡する事件(東大寺大仏殿の戦い)が起きている。だが、その10日後には長逸の嫡男・生長と名を改めた長虎が山城普賢寺谷で松永方の軍勢に勝利している。義継・久秀にこのような抵抗を受けつつも、戦局は全般的に久秀を大和に封じ込めていた三人眾方の優勢で進んでいて、三人眾が義輝の従弟にあたる足利義栄を14代將軍に就任させたことも優位に繋がった。特に義栄の將軍就任直後に出された御供眾の名簿に「三好日向守」として加えられており、當時対立関系にあった義継と同格の立場(三好長慶以降、三好宗家の當主は御供眾の資格で將軍に仕える事が許されていた)になったことが注目される。
しかし永祿11年(1568年)、織田信長が6萬と號する大軍を擁し、永祿の変で三好方が取り逃がした義輝の弟・足利義昭を押し立てて上洛を開始した。この動きに対し、三人眾はかつての宿敵である近江の六角義賢紀伊國の國人眾、高野山等と結んでこれに徹底して対立する姿勢を示す一方で、三人眾の攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継・松永久秀はいち早く信長に恭順する。長慶沒後の三好家內紛の悪影響は甚大であり、信長の上洛を受けて六角義賢は近江を追われ(観音寺城の戦い)、將軍に擁立した足利義栄も上洛出來ず急死、三人眾方の國人眾や幕府奉公眾らからも織田方への寢返りが続出、三人眾もそれぞれの居城を落とされ逃亡した。長逸は細川昭元と共に芥川山城に籠城したがあえなく阿波へ退散した。
畿內退去後
永祿12年(1569年)の本圀寺の変において、長逸は兵3,000を率いて摂津國池田方面から來援する織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの軍勢を桂川で迎撃したが激戦の末に敗北(桂川の戦い)、これにより三人眾の勢力は本國阿波まで後退してしまう。
しかし元亀元年(1570年)、長逸は篠原長房らと共に四國における三好軍をまとめあげ再度の反攻を図った。6月、摂津池田城で謀反を起こして城主・池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人眾に呼応して摂津に軍を進めた(野田城・福島城の戦い)。織田側が戦いを有利に進めるが、摂津に本拠をもつ石山本願寺が突如、織田軍を攻撃(石山合戦の勃発)。三好軍は紀州勢や一向一揆の參戦、さらに織田方にとっての後方である近江での淺井長政朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河內から駆逐する成果を上げた。だが三好軍にも追撃の餘力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれている。
この和議は翌年早くも破られ、三人眾は摂津・河內を拠點に石山本願寺と連攜しつつ信長包囲網の一角を擔った。しかし、本國阿波で三好長治が篠原長房を殺害し、家中の不和を招くなどの混亂もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。元亀4年(天正と改元、1573年)、足利義昭自身が決起し、これに義継・久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。だが同年の武田信玄の病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿內の反織田勢力も一気に瓦解に突き進む。義昭は畿內から追放、三人眾の1人・岩成友通は淀城で戦死、淺井長政・朝倉義景も織田軍に討たれた。
長逸については、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できる最後の事跡である。一說にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はなく、長逸と息子の生長のその後については隠居・幽閉說など各種の說が存在する。宗渭は行方不明となり、義継は義昭を匿ったため織田軍に討ち取られ、反対に久秀は信長に降伏して生き延びた。長治は阿波の內亂で敗死、康長を始め他の三好一族は信長に臣従・討伐され、大名としての三好氏の勢力は消滅した。

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