日本皇朝十二錢

日本皇朝十二錢:日本奈良、平安時代,受中國唐朝錢幣影響,自元明天皇和銅元年(708年)始,仿照唐“開元通寶”錢幣,鑄“和同開珎”錢,到村上天皇天德二年(958年)鑄“乾元大寶”錢,250年間,共鑄造十二種錢幣,總稱“日本皇朝十二錢”。

皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)とは、708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて、日本で鋳造された12種類の銅銭の総稱である。本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)、皇朝十二文銭(こうちょうじゅうにもんせん)とも呼ばれる。また、「皇朝」の語を避けて古代銭貨の名稱を用いる研究者もいる。

基本介紹

  • 中文名:日本皇朝十二錢
  • 分別為:和同開珎”鑄於和銅元年708年
  • 歷史:日本奈良、平安時代
  • 屬性:仿照唐“開元通寶”錢幣
錢幣類別,具體介紹,

錢幣類別

1、“和同開珎”鑄於和銅元年(708年)
2、“萬年通寶”鑄於天平寶字四年(760年)
3、“神功開寶”鑄於天平神護元年(765年)
4、“隆平永寶”鑄於延曆十五年(796年)
5、“富壽神寶”鑄於弘仁九年(818年)
6、“承和昌寶”鑄於承和二年(835年)
7、“長年大寶”鑄於嘉祥元年(848年)
8、“饒益神寶”鑄於貞觀元年(859年)
9、“貞觀永寶”鑄於貞觀十二年(870年)
10、“寬平大寶”鑄於寬平二年(890年)
11、“延喜通寶”鑄於延喜七年(907年)
12、“乾元大寶”鑄於天德二年(958年)
日本皇朝十二錢
日本皇朝十二錢

具體介紹

承和昌寶 和同開珎
皇朝十二銭は、以下の12種類である。
和同開珎 708年(和銅元年)
萬年通寶(萬年通寳) 760年(天平寶字4年)
神功開寶(神功開寳) 765年(天平神護元年)
隆平永寶(隆平永寳) 796年(延暦15年)
富壽神寶(富壽神寳) 818年(弘仁9年)
承和昌寶(承和昌寳) 835年(承和2年)
長年大寶(長年大寳) 848年(嘉祥元年)
饒益神寶(饒益神寳) 859年(貞観元年)
貞観永寶(貞観永寳) 870年(貞観12年)
寛平大寶(寛平大寳) 890年(寛平2年)
延喜通寶(延喜通寳) 907年(延喜7年)
乾元大寶(乹元大寳) 958年(天徳2年)
いずれも形は円形で中央に正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。貨幣価値としては、律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。このほかに金銭の開基勝寶、銀銭の太平元寶なども試鋳しているが(760年)、これらは銅銭とは異なり、広く流通したものではなかったようであり、銅銭の通用価値を高く設定するための見せ金であったとする說がある[2] 。
律令期に皇朝十二銭が発行された目的としては、唐の開元通寶を手本とし、貨幣制度を整えるため、また、平城京遷都に必要となる莫大な経費を、銅地金本來の価値と貨幣価値との差額で賄うためということが挙げられる。
和同開珎は、日本で実際に流通したことがはっきりしている貨幣としては最古のものである。これより古い貨幣に富本銭があるが、これは実際に流通したかどうかは諸說ある。和同開珎発行から3年後の711年には、貨幣を多く蓄えたものに位階を與えるとする蓄銭敘位令が発布された。蓄銭奨勵と流通促進とは矛盾しているが、銭貨の流通を促進するために発令されたと考えられている。しかし、実際に位階を與えた記録は、同年11月の1例しか殘っていない。當時の日本は米や布などの物品貨幣が一般的であり、社會経済水準が貨幣を必ずしも要していなかったため、畿內とその周辺國以外にはあまり普及しなかったとも考えられる。また、仮に需要があったとしても、そもそも銅の生產量が絕対的に少なかった當時の日本では、実物貨幣に代わるだけの銅銭の製造は始めから困難であった(秩父黒谷における自然銅の発見を機に元號を「和銅」と改めてしまう程當時銅は貴重であり、また後述のように時代が下るにつれて急速に品質が悪化している)。ただし、発見地は北海道から熊本県まで全國各地に及んでいる。
和同開珎が発行されてから52年後、萬年通寶への改鋳が行われた。この時、和同開珎10枚と萬年通寶1枚との価値が等しいと定められた。この定めはその後の改鋳にも踏襲された。皇朝十二銭は改鋳を重ねるごとに大きさが縮小し、重量も減少、素材も劣悪化していった。當時の制錬法では利用できる銅資源が限られていたため、原材料の銅の生產量が年々低下したためである。もっとも、急激に劣悪化したとされている承和昌寶を基準として捉えると、大きさは乾元大寶までほぼ一定であり、品質も寛平大寶まではほぼ同水準を保っていることから、承和昌寶を銭貨の基準品質とする1つの畫期とみなす考えもある[3]。
和同開珎が発行されて間もない頃には、銭1文で米2kgが買えたが、9世紀中頃には、買える米の量は100分の1から200分の1にまで激減してしまった。延喜通寶や最後の乾元大寶は、銅銭ではなく鉛銭であると言われるほど鉛の含有量が高いものが多く存在する[4]。価値の低下した銭は、流通と交易の現場から忌避されるようになり、宋銭が大量に流入する12世紀後半まで、日本國內での銭の流通は限定されたものとなった。
破銭運動
當時の貨幣は小額通貨であり、穴あき銭ともいわれるように高額取引では束ねて用いることが多かった。このため、いちいちほどいて刻印を鑑定する手間がかかるうえ、これをおろそかにすれば贗金や沽価のひくい唐宋銭がまじりやすく、インフレを招いた。これを「銭の値が卑しくなる」と表現している。政府は東西の市司に命じて物価を統制し、銭の価値を高く固定しようとしたが、このことはかえって安く仕入れた中國銭を素材に両替詐欺まがいの行為を助長させた。品位の低下はこれに拍車をかけた。和銅銭にちかい大きな中國銭を薄く小さな銭に変造するのはたやすいことである。
さらに問題なのは、新銭の発行ごとに行われた1000%のデノミである。もともと政府の設定した銭の価値に問題があり、新銭の価値が10倍である根拠がなかったため、市民からみれば、貯蔵している舊貨が両替によって10分の1に減ることは、大きな打撃であった。このため、大量に溶解して銅材とし、両替を拒んだのである。たとえば10枚の10円玉を新10円一枚に取り替えられるとすれば、舊10円は1円の価値でしかなくなるので銅にしたほうが得、という理屈だ。新10円に100円の価値があると認められなければ、現在でも同様のことが起こりうる。これは和同開珎を始めとして日本の銭貨には中國の開元通寶よりもはるかに高い名目価値が設定され、やがて通用価値が下落したため、新に発行される銭貨に高い名目価値を設定する目論見があったとする說がある[2]。
さらに、前述したように、當時の制錬技術では、銅鉱石のなかでも日本で大量に產出する黃銅鉱など硫化銅を成分とするものは利用できず、孔雀石、黒銅鉱など酸化銅を成分とする限られた鉱石しか利用できなかった[5]。日本各地の酸化銅鉱山では深刻な資源の枯渇にさらされており、銅の価値は上がっていた。少なくとも數億枚は発行が確認されている[要出典]銭が、いくら経済発展があるとはいえなかなか回収できず、品位を下げざるをえなかったのは、破銭(銭を溶かして銅地金として利用する行為)が広く行われたためと理解される。
これに対し984年(永観2年)には「禁破銭令」が出される事態となり、新銭発行が極めて困難な狀況になった。この禁令は社寺などに出されていることから見ても、朝廷が反対できないよう、銅燈篭など「國家安泰を祈願するため」の仏具に事寄せて溶解する方式が取られたのであろう。この結果、皇朝銭の現存枚數は記録と比較してもきわめて少ないものとなり、とくに後期のものは低品質の影響で錆び、刻字が読めるものはごく稀で現在の古銭市場ではかえって莫大な値打ちをまねいている程である。
加えて、當時の日本の支配層というべき後世平安貴族と稱される人々が今日でいう経済學の知識を持ち合わせていなかった點も流通不振の原因であった。乾元大寶発行直後の959年(天徳3年)4月8日に新造された銭を伊勢神宮など11社に奉納して流通を祈願(『日本紀略』)し、986年(寛和2年)6月16日には諸社諸陵に銭の流通の祈禱(『本朝世紀』)させ、翌987年(永延元年)11月27日にも十五大寺に対して同様の命令(『日本紀略』)を出している。そして、987年(永延元年)3月16日には上賀茂神社の鳥居脇から和同開珎・萬年通寶・神功開寶7合わせて782枚が発見されたことが朝廷に報告され、朝廷ではこれを流通させていいのかを神祇官・陰陽寮に対して占わせた(『日本紀略』)という。ところが、この時の事を詳細に記した藤原実資の日記『小右記』によれば、その古銭は鼠が鳥居脇から掘り出したという不自然な方法で発見され、しかも古銭の流通とともに新銭発行の可否を占わせたことが記されている(永延元年3月14・16日條)ことから、古銭発見そのものが新銭発行を推進する立場からの一種の「やらせ」行為があったとみられている。しかも、當時の乾元大寶よりも大きく良質な古銭を流通させた場合に本來過去の銭の10倍の価値で通用するとされていた乾元大寶の価値が暴落してしまうという問題については全く認識されていなかった。當時の支配層が経済と銭の関系に関する知識が無かったために銭の流通不振の原因を理解しておらず、対策も持ち合わせていなかったためにひたすら神仏の加護によって事態を解決しようとしていたことを示している[6]。
皇朝銭の終わり
こうして、民間での、政府が発行する銅銭への信頼は失墜してしまい、使用されなくなった。乾元大寶が発行されたあと、朝廷の弱體化もあり、銅銭は発行されなくなった。その後、日本では11世紀初頭をもって貨幣使用の記録は途絕え、米や絹などの物品貨幣経済へと逆戻りしてしまう。ただし畿內などでは300年かけて形成された金屬貨幣そのもののに対する需要が完全に無くなった訳ではなく、贓物(盜難品)の被害額をした贓物勘文[6]や沽価法などの公定価格の決定には貨幣換算によるものが用いられてきた。やがて経済が発達すると、中國から輸入した宋銭、元銭、明銭などが用いられるようになった。
皇朝十二銭が発行されなくなってから、長い間日本では公鋳貨幣は作られなかった。銅銭の公鋳の再開は、皇朝十二銭の600年以上後の1608年(慶長13年)に鋳造された慶長通寶あるいは1627年(寛永4年)の寛永通寶鋳造まで待つこととなる。
付言
和同開珎以前に別の銭貨が造られた可能性がある。一つは無文銀銭であり、他にもう一つは富本銭である。
また、準貨幣として用いられたものに「布貨」がある。中國では唐銭以前にも穴あき銭はあったが、その空白期には布や米などを貨幣代わりに用いた。國稅にあたる「調布」はその名殘である。また「贖銅(罰金)」にもちいられた銅や砂金、銀なども秤量貨幣の一種と見なすことができる。古代中國の刀銭などに代表される準貨幣としての貨布は、古墳時代の鉄鋌(てってい)などがこれにあたるとの見方がある。

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